第59回「監査人の手のひら」(2011年11月5日)

 大分昔の話です。監査を担当していたある会社の経理部の女性がとても優秀でした。やがては株式上場を目指そうという会社ですから社員には高い能力が要求されるのですが、その女性はテキパキ仕事をこなし、上司の信頼は厚く、同僚からは尊敬されておりました。我々も素直にその実力を認めると同時にいろんな面で敬意を表しておりました。美人でもあり、とても評判が良かったのです。

 ところがある時、晴天の霹靂が勃発したのです。退職金・年金の監査を担当していたウチの若手が関係書類のチェックをしていて、彼女が実は「男」であることを発見したのです。保険会社作成のある資料の性別の欄で「男」の文字が濃い○(マル)で囲んであったのです。ただ、性別がどちらであれ少なくとも退職給与の引当額には何の影響も無く、会計的には問題がないのでそのままパスしました。しかし果たしてこれをどうしたものか迷いました。上司は知っているのだろうか、知らせるべきか黙っているべきか、黙っていて何か不都合が生ずるだろうか等々色々考えました。極めてプライベートな事項でもあるし、会計的になんら問題がないのでとりあえずこちらからは切り出さないで、様子を見ることにしました。

 この時の監査は1週間の予定で、その間の我々同士の会話では彼女に対する発言ががらりと変わりました。「ちょっとした仕草が男臭いし、俺は最初からオカシイと思っていたんだ」とか「女にしては、色が黒かったよなぁ」とか「肌がどちらかというと脂ぎっていたよね」とか「大事な資料をその辺に散らかして大雑把過ぎるし、声も太いし、ひょっとしたらと思っていたんだ」などと、今までとはまるで180度、言うことが違うのです。皆の調子のいい発言は兎も角として、私には今一つ信じられないという気持ちもありました。 この会社の監査を初回から担当していたのは私一人でした。他の監査人は後から参加してきたので、彼らは古い話を知りません。
私は、監査の初期段階で「韓国旅行をして垢(あか)スリをしてもらった」という話を彼女から聞いていたのです。その時ついうっかり「垢、いっぱい出たの?」と聞いたら彼女は少し赤面しました。その彼女が男なんてとても思えないのです。

 真相は意外にたわいもなく明らかになりました。監査の5日目位に、退職金・年金担当の総務部長にいろいろ質問したのですが、この件をどうしようか迷い、暫らく沈黙となりましいた。雰囲気から察したらしく総務部長の方から「あの …… 気がついていたと思いますけど …… あれは保険会社のミスですから。訂正を申し入れてありますから来月の資料では『女』にもどるはずです。」

大笑いとなりました。悩んで損しました。それにしても手のひらを返すようにコロッと変わる、とよく言いますが監査人の手のひらの何と見事にひっくり返ること!


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